アニメ Fate/EXTRA Last Encore 雑感
アニメ視聴にはその途中で見切ったり見忘れたり
挫折したりしてしまうことがよくあります。
別に完璧でなくても、高水準でなくても
これがあるから観れる、これさえあれば観れる、
というのものを無意識の内にアニメに求めていて
その求めたものが作品内に無かったり途中で無くなったりすることで
そのアニメの存在が自分の中で意義を失ってしまう、
これが視聴の継続を断念するメカニズムのように思います。
アニメに何を求めるかは人によりますが
アニメ自体もまた何かを求められて作られるわけなので
作ってる最中に求められたものが失われたら
やはりそのアニメ作品の意義も失われてしまうのではないか?
というか実際にそのように感じてしまう気がします。
そういう意味で新房昭之という監督さんは
作品を維持するのがとても上手い方だと思います。
自分はFateという膨大な派生作品群に対する関わり方を
いつも(良い意味で)思い悩んでいるのですが
新房監督作品である「Fate/EXTRA Last Encore」は
それを正に実際に目の前でやって見せてくれたアニメでした。
設定、世界観、演出全て
新房監督味溢れるFateに作り直してしまった。
もちろんそこに生じる抵抗や摩擦はあるものの
先に述べた作品意義は最後まで失われることなく視聴することができました。
欲を言えばもっと新房節全開でもよかったのですが
もし次回Fateをアニメ化する機会があるならば
その時にFateの全てとは言わないまでも
世界観、時系列、その他諸々を統括する
「Fate物語」として
作ってくれれば良いなと思います。
TVアニメ「Fate/EXTRA Last Encore」第3弾PV
SHAMAN KING THE SUPER STAR 雑感
シャーマンキングの最新作
「SHAMAN KING THE SUPER STAR 」を読んで
ようやくなんとか文章にできそうに思えたのでまとめてみます。
まず問題となるのは派生作品の多さで
シャーマンキングの他には
シャーマンキングZERO
シャーマンキングFLOWERS
そして現在連載中のSUPER STARがあります。
ZEROの方はより作品を掘り下げたり補完するような
外伝的な作品なので必ずしも読む必要はないと思うのですが
FLOWERSの方はその延長上にSUPER STARがあるので
読んだ方が理解度が上がります。
それでもなおSUPER STARには違和感があって
その正体が何だったのかというと世界観の違いでした。
シャーマンキングといえばこの画像の女の子の様な
オーバーソウルをまとって戦うイメージがあるのですが
SUPER STARでは最初から画像中央の戦艦の亡霊をメインに
ストーリーが進んでいきます。
戦艦だけでなく戦闘機、戦闘兵まで登場し
更に戦時中の回想シーンまで描かれます。
それはまるでシャーマンキングの世界観に取って代わる勢いで
何かの戦争漫画を読んでるような気になります。
この戦争の亡霊はシャーマンキングやFLOWERSなどでも
度々描かれていて
作者である武井先生の中で
何か描かなければならない意思のようなものを感じます。
何故ここまで戦争の亡霊にこだわるのか?
そしてどのように受け止めて読むべきなのか?
これはシャーマンキングの世界が克服すべき、
立ち向かうべきテーマの1つとして描かれているのではないか?
というように考えてみました。
シャーマンキングとは異なる世界、文化に対して
立ち向かっていくことで何か新しいものを
生み出そうとしているのではないか?
というのと
FLOWERSで放置されたままになっていた物語を回収し
今後まとめていかなければならないという
この2つの問題の解決がSUPER STARという
結果になっているのではないかという結論に至りました。
その結実がついに4巻にて一応の結末を迎えたので
戦争編(?)なるものは今後はあまり描かれなくなっていくと
思うのですが
「フラワー・オブ・メイズ」という神々の代理戦争は
正に異なる世界、存在のぶつかり合いなわけで
今のところチームハオとチームヤービスの
2チームしか登場してないので
今後もシャーマンキングの世界観の拡大という挑戦は
続いていくんじゃないかと思われます。
これからシャーマンキングがどういう姿形になっていくのか
期待しつつ応援していこうと思います。