劇場アニメ プロメア 雑感
漫画やアニメにはストーリーの面白さや作画の出来映えなど
その他もろもろあらゆる要素から成り立っているわけですが
単純にそれらを評価して面白いかどうかを決めるのとは別に
その作品の持つパワーというか
それぞれの作品が持つ独自の性質のようなものがあると感じます。
劇場アニメ「プロメア」を視聴したのですが
どこを切り取っても素晴らしい
技術的にあらゆる面で評価できる
次世代アニメと呼ぶに相応しい作品です。
なので当然面白いし、その面白さに圧倒されましたが
この圧倒的面白さは画面上の演出だけの問題で
済んでしまうものなのでしょうか?
たしかにこのプロメアという作品は
とにかくヴォリューム過多で
高カロリーな要素満載のてんこ盛りですが
ただの直接的な刺激によってそれらに圧倒されたというよりは
もっとこう、それに伴う内面的な感動(であってほしい)
だからこそ
プロメアを見終えた後、
ぶっ飛んでしまって
数日間何もできなくなってしまうほどの事態や
日常生活に何かしらの大きな変化が起こったことに対して
納得できるし肯定できます。
プロメアのクオリティはヤバかったけど
自分の中ではそれが演出上の枠を超えて
受け止めるのが大変なくらい大きな作品でした。
こういうのは人によって
作品ごとの相性があったりして
受け止め方が全然異なる場合も多いものですが
とにかくプロメアのパワーはヤバかったです。
アニメ「ダンベル何キロ持てる?」 雑感
アニメ視聴に関する問題の1つとして挙げられるのが
「女性キャラクターの人数の多さ」があります。
その方がエロいし見栄えも良いし
アニメなのだから登場人物全員カワイくしたっていいし
そっちのがイイじゃんというのが
個人的に浮かぶ主な意見なのですが
そうなると次に浮かぶのは
どこまでアニメである必要があるのだろうか?
という疑問が生まれます。
ただエロいだけでいいならAVや成人漫画があるし
それ専用のエロアニメだってあります。
通常のTVアニメに対していわゆる萌えエロを求める場合には
TVアニメのストーリーや設定を前提とした上でそれらを要求していることになります。
このストーリー設定と萌えエロのバランスは
アニメを視聴する理由をいつも自分に問いかけてきます。
簡潔に言えば
TVアニメを建前抜きに楽しめるのはどこまでで
その作品は一体何なのか?
ということです。
例)ヒロインや登場人物の一部が萌えエロに特化していたりするもの
例)萌えエロが軍事やスポーツ、部活動などの幅広いジャンルとコラボするもの
例)萌えエロの比重がストーリー設定よりも大きくなってしまうもの
どれが良い悪いとか優劣の話ではなく
単純に世間話や日常会話など表立って誰かと好きなアニメの会話をする時に
素直にそのアニメの感想を語るのに躊躇したり
後ろめたさがあるというのはつらいことです。
自分の観てるアニメくらいちゃんと説明できるようになりたいものです。
アニメ「ダンベル何キロ持てる?」を観たのですが
筋力トレーニングの解説が第一目的のアニメとして作られていて
健康やダイエットをテーマにしたバラエティー番組
の感覚で観ることができました。
そこに萌えエロ娘とストーリー設定が付いてくるので
エロカワなのにとても安心して観れる
個人的に新しいスタイルの萌えアニメのように感じました。
これをもっと身内的な感じにしたのが
宇崎ちゃんとか高木さんとかの「○○くん」「○○さん」シリーズのような
親近萌え(エロ)系アニメな気がしました。
さらにはVtuver萌えなどまでも含んでいくのかもしれませんが
ここらへんまで来ると
作品の名目や分かりやすい目的がなくなってしまうので
「ダンベル何キロ持てる?」のバラエティ番組要素というのは
今後重要になってくるんじゃないかと思いました。
Vtuverなんかはいつも面白そうな企画を動画で流していますが
あまり萌えエロみたいなアニメ要素は感じないので
逆にもっと皆で映画とかバラエティなどの方面に
進出したりするのも面白いんじゃないでしょうか?
話がぼんやりしてしまいましたが
今回は「ダンベル何キロ持てる?」を観て
思ったことを文章にしてみました。
封神演義 雑感 その3 ~原作と二次創作編~
大河作品というものに今まであまり触れて来なかったのですが
漫画版「封神演義」にもそう言って差し支えない読み応えがありました。
大河といえば普通の歴史物語になるのが普通だと思うのですが
封神演義には人間の住む人間界と、仙人の住む仙人界が存在します。
その2つの世界をまたいで中国の殷の時代を物語るというのが
面白さの1つです。
基本的に仙人たちが人間界を良くするするために
あれこれ画策するのですが
仙人界にもいざこざがあったりして
人間界そっちのけで激しくぶつかりあったりします。
封神演義の「封神」というのも
人間界に悪成す存在を封印するという部分からくるもので
物語はその封神計画を主人公である太公望という仙人に
任されるところからスタートします。
これは歴史モノ全般に言えるのかもしれませんが
一応史実に則っているので
キャラクターの目的や意向がはっきりしていて
何をしようとしているのか理解しやすくどこか安定感があります。
単純に分かりやすいということではなく
歴史的な裏付けというのは想像以上に
作品を強固なものにしていると思います。
その上で仙人という非実在的な存在が
ファンタジーすることで
史実を読んでいるはずなのに
なぜかフィクションてんこ盛りになっているという・・・
このハイブリッド感は結構ありそうで、なかなか味わえない不思議な体験でした。
中国の歴史で仙人が出てくるSFファンタジーって
全然ピンこないし実際に当時読んだ時は全然ピンと来ていなかったんですが
いざちゃんと読んでみるとこれをヴィジュアルで成立させられる
藤崎竜先生の実力はかなりスゴイと言えます。
あまりにもぶっ飛んだデザイン!!
次に何が出てくるか想像するだけでもワクワクします。
さらに封神演義にはその仙人の象徴となる武具、
この宝貝のデザインがまたヘンテコなものばかりで面白いです。
キャラの個性を際立たせるためには
必殺技、超能力、霊能力など色々ありますが
アイテムによる差別化というのも
なんかありそうでなかなかなくて地味に新鮮でした。
他にもたくさんありますが
見事に原作封神演義をまとめあげたと言えると思います。
ただ気になるのは
原作版に対する藤崎版の封神演義の評価です。
原作とアニメでさえ驚くほどの差異や改変があるのだから
藤崎版封神演義が原作と比較して
全く受け入れられなくても不思議ではありません。
これは原作の方が良いとか悪いとかの話ではなくて
結果として原作との違いによる違和感が生まれてくるだろうということです。
そのとき藤崎版封神演義が原作版と比べて
どれくらいのズレや取りこぼしがあったとしても
それはそれとして認めた上で、
そこから藤崎版封神演義自体を評価することが
今回の自分にとっての重要なテーマになりました。
原作版にあるかどうかは不明ですが
この原作の改変、つまり歴史の改変も
藤崎版では伏線回収的な意味で最終的に取り扱われています。
拡大解釈かもしれませんが
オリジナルも二次創作もどちらの在り方も認められるような
終わり方だったと言えなくもない気がしました。
藤崎版封神演義には何と
自分だけの封神演義を編集できるゲームまで発売されています。
全てのプレイヤーの望む封神演義、
それはもはや封神演義でも何でもないものになってしまう様に思えもしますが
今回自分の経験した個人的な封神演義体験では
やはり原作とアニメ、原作と二次創作のその違いや在り方の問題が大きかったので
どういう形にせよそれらが救い上げられたことで
自分も報われた感があって良かったです。
封神演技 雑感 その2 ~アニメと原作の違い編~
自分の場合、封神演義の入口となったのは
アニメ版「覇穹 封神演義」からでした。
視聴した第一印象は面白いかどうか以前にまず理解するのが難しかったです。
中国文化に馴染みがなくてキャラや技などの名称が頭に入ってこないのと
政治や歴史、地理などストーリーの進行を解説するナレーションがないので
作品のバックボーンが分からないまま
いきなり中国文化のアニメを観てしまった感じになってしまいました。
あとかなり大胆な構成になっていることは明白で
原作未読には厳しいアニメと言えます。
逆にそういったこのアニメに対する疑問が気になって
原作を読んでしまうところまでいってしまいました。
結果的にどんな原作なのか知りたくなるようなアニメではあったのですが
原作を知っていると物語の省略具合が半端ではないのが分かってしまって
それはそれで物足りないようにも感じてしまいました。
一応改変ではなく省略なので
作画崩れなどの原作のイメージを損なう感じともまた違って
何とも言えない微妙な気持ちになる不思議なアニメでした。
封神演義のアニメ化は今回で2回目らしく
1度目がどんなアニメなのかは確認していないのですが
今回の件で原作のアニメ化の意義について色々考えさせられました。
映像面に関しては大幅にパワーアップしているし
声優さんのキャスティングや演技も素晴らしい。
しかし物語設定の省略や構成の変更による問題も
同時に受け入れながらアニメを観ていかなければならない。
つまり原作アニメを観る際には
それ専用の受け入れる意識の在り方をちゃんと用意する必要があります。
ストーリーを理解しつつも
原作からある程度離れて映像を楽しむモードになる。
原作はそれでも気になった時に確認するもので
間違い探しをするために扱ってはならない。
なんだか当たり前のことような気もしますが
アニメごとに関する意識配分というのは
同じようでいて無意識の内に随分使い分けていると思います。
アニメ「覇穹 封神演義」に関しては
軍事政略や歴史的観点から観るよりも
初心に帰って中華風少年マンガとして観るのが良いと感じました。
その見方が確立されてくると
主役の太公望たちが美しい背景映像の中を
魅力的で大らかに動くように見えてきました。
とてもゆったりとした時間の流れを生み出している感があります。
他にも(妲己ちゃんがカワイイとか)良い部分はたくさんありますが
それはあくまでも先に述べた原作との不和を解消した先にありました。
その上で臨む最終戦は原作勢も納得の素晴らしい出来でした。
やはりハイクオリティな原作モノアニメというのは
様々な障害を乗り越えてこそのものなのかもしれません。
その3に続く(かも?)